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ミミオ図書館 STATEMENT
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鮎川ミミオ”鍋”図書館
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動く人間 02:今泉清司
動く人間 02:今泉清司
ミミオ図書館 in 船引 REPORT
ミミオ図書館 in 船引 REPORT
ミミオ図書館 in 船引
ミミオ図書館 in 船引
動く人間 01:梶原千恵
動く人間 01:梶原千恵
ミミオ図書館 in 女川 REPORT
ミミオ図書館 in 女川 REPORT
ミミオ図書館 in 女川
ミミオ図書館 in 女川
ミミオ図書館 in 石巻市図書館 REPORT
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ミミオ図書館 in 石巻市図書館
ミミオ図書館 in 石巻市図書館
ミミオ図書館設立から石巻へ
ミミオ図書館設立から石巻へ

動く人間 01:梶原千恵

インタビュアー:坂本里英子(VOLCANOISE代表)

 

ミミオ図書館 in 女川は、初めてミミオ図書館を開館した石巻市図書館に梶原千恵さんが訪れ、女川でも是非開館したいと言ってくれたことから始まった。

 

 

 

坂本:ミミオ図書館を女川の集会所で開館してみて、いかがでしたか。

梶原:搬入の日に、鴻池さんが集会所の配置を考えた時点で、すでに全然違う雰囲気になったと思いました。ものの配置一つとっても、すごく良い空間をつくってくれました。集会所は、建物自体の雰囲気はいいのに、使う人の心地良さがあまり考えられていなくて、以前は入口をふさぐようにカウンターがあって入りづらく、素通りする人が多かったんです。集会所なのに、いつも人がいなくて溜まり場になってないから、何かできないかなとずっと考えていたんです。今日でミミオ図書館が終わって、配置がもとに戻ってしまうのが、とてももったいないですね。

坂本:いろいろなイベントのポスターが貼ってありますけど、普段も何か催しがあるんですか。

梶原:宮城県内の体育大学とか福祉大学などがやっていますが、そういうのに参加する人は決まっていて、体を動かすとか歌うのとか嫌な人は家にこもってしまう。

坂本:仮設住宅の方にとって、外部の人間がやって来るのはどういう心境なんでしょうか。

梶原:「また来たな」という感じで慣れているとは思います。でも、ミミオ図書館みたいなことは今までなかったんですよ。車で来る移動図書館はあったけど、ミミオ図書館はそれだけじゃないですよね。司書の方もたくさん来て、いろいろな形の交流があって、それに時間が限られた単発のイベントじゃなくて、何日間か常に開いているのがいいと思いました。

坂本:石巻でもそうだったんですけど、最初は何をやっているんだろうと警戒されて当たり前だし、時間をかけてじわじわと浸透して来場者が増えていく感じがありました。今回は9日間の開館で、もう1週間くらいあってもいいかなと思いましたけど、その場所の条件に合わせるというのも、ミミオ図書館のスタイルですからね。

梶原:「焚書 World of Wonder」の原画を持ってきてもらえたことには、正直びっくりしています。ほとんどの人たちが、鴻池さんを知らないで見に来ていますけど、作品を見ながら驚いている人もいました。作品だけを受身で見にくる空間ではなくて、別の場所で絵本を読んだり、シアターでもアニメーションのなかのミミオをつかまえようとして影絵をやったりとか、それぞれが自分なりの楽しみ方を見つけているのがいい。みんな勝手に好きなことやっているけど、ミミオ図書館のなかにいるというがいいですよね。何かイベントがあるから決まった時間に来るのではなく、いつでも来れば自分なりに楽しめるというのが本来の集会所で、自然に人が集まってくる場所ですよね。だから、ミミオ図書館が終わった後でも、ここに来るのが習慣になった人がいて、これからも来てくれるといいです。

坂本:大人の方で1時間くらい、本当にじっくり絵本、原画、映像を見てくださる方がいたり、何日も通って1冊の絵本を何度も読んでくれる方がいました。確かに、1日限りの単発のイベントではなかなかできないことかもしれませんよね。ところで、梶原さん自身もまた何かやろうと思っているんですか。

梶原:今、学校で教員の仕事をしているので、できるとしたら休みの日や週末ですが、それでも継続的にやれば何か形になるかなとは思っています。女川には使ってない場所がたくさんあるので、本当はギャラリーというかスペースをつくりたいと思っています。拠点があるのはやっぱり違うんですよね。

坂本:ミミオ図書館もそうですけど、その時々で宿り木を変えるというか、その時できる場所を使ってやっていくという方法もあるかもしれませんね。

梶原:やり方はいろいろ考えられますね。ミミオ図書館は、鴻池さんや坂本さんの繋がりで司書もいろいろな方が集まってくるじゃないですか。それがすごくいいなと思っています。この辺りに住んでいる人は職業も限られているから、私がスペースをやれば、面白いことをしたい様々な業種の人がこの街に来てくれて、その窓口になれるといいなと考えています。目標は、ギャラリーのようなスペースで、作品を大人にも子供にも見てもらうことです。でも、そんなに堅苦しくない、こういうミミオ図書館みたいな自由な雰囲気っていうんですかね。

 

坂本:女川でのミミオ図書館は、梶原さんがやりたいと言ってくれたから実現したわけで、そういう動いてくれる方がいないと始まらないんですけど、女川には梶原さんのように活発に動いている方が他にもいらっしゃるんですか。

梶原:はい、私よりももう少し若い世代の人たちですけど、イベントをしたり人を呼んだりしている人たちはいます。あとは、それが継続するかどうかですね。去年、私も1年間ボランティアみたいなことしていたんですけど、採算度外視だから続けるのは難しいですよね。

坂本:続けることって難しいですよね。絵本の寄贈や司書の集まりが、日を追うごとにトーンダウンしていくのが手にとるようにわかります。でも、逆にここからが始まりなのかなとも考えています。女川にいれば、一時期わっと人が来て、それが引いていく感じをもっと身近に感じられているかと思いますが。

梶原:トーンダウンは確実に感じていますし、住んでいる私たちだってそうですよ。外に出れば街自体がなくなってしまっている状況は変わらないのに、報道は少なくなり、地元の人も何かこの状況に安心してしまっているところがある。本当は、これからどうにかしていかなきゃならないのに、去年みたいな「よしやるぞ!」という気持ちが、明らかになくなっています。次に何をしていいかわからないというのが、震災から2年目に入った問題じゃないかと感じています。1年で区切りがついて、住む所が一応あって生活も何とか成り立つ。変な言い方だけど、「辛い」とか「頑張んなきゃ」って思うことに飽きちゃったというか。変ですよね、自分のことなのに。その変化自体は、正常なことだと思うんですけど、その先が問題なんですよね。去年は、悲しいから、くやしいから頑張っていろいろなアイデアをだして、商品を考えたりイベントやったりしたけど、一度その商品が売れたりイベントが話題になると、そこでストレス解消というか終わっちゃうんですよ。次にどうしようという発想が出てこない。このままだと、今のまま変わらない気がするんですね。

坂本:地元の方たちは、変わることを求めてないんですか。

梶原:本人が求めるか求めないかに関わらず、仮設住宅だっていつかは出なきゃいけないのに、その後の生活を考えるエネルギーがなくなってきている。何かを与えられるってことは、実はすごい怖いことだなと思いました。雰囲気が停滞していて、何か始まるとか新しい話をあまり聞かなくなってしまった。私は、一旦全てがなくなって、こんなにいい仮設住宅もできたのだから、さらに上をいくことを目指せばいいのにと思うんですけどね。集会所ももっとアイデアを出して使い方も考えればいいのにと思います。都会の人は、どこか田舎臭さをもとめて来るのかもしれないけど、住んでいる方はもっと心地よくていい空間にいたいと思うのは普通ですよね。

坂本:それって、今のままで良いってことですか。

梶原:人って状況に合わせて適応していくんだと思います。1年間で、この状態に適応したんじゃないかな。震災以前から、商店街からは人がいなくなっていたけど、この街は原発があってお金があるから特に観光に力を入れたり、頑張る必要がない。こんなに小さな街だから変えようと思えば、震災がなくても変えられたのに、それをしてこなかった。だから、受身なんですよね。

 

坂本:すごく立派な総合体育館がありますよね。女川は、こんなにスポーツに力を入れている街なんだとびっくりしました。

梶原:陸上競技場も何十億というお金をかけてつくられています。宮城県内で一番良いコースが使われている。体育館のなかも様々な施設があるのに、スポーツとか文化にあまり自分から参加しようという気がないのか、街の人はあまり使ってない。でも、お金があるからつくるんですね。女川の一番の娯楽はパチンコです。私の周りでも若い人もみんなやりますし、パチンコ屋と飲み屋さんがすごく多いんですよね。

坂本:女川には、どんな文化施設があったんですか。

梶原:駅前に生涯教育センターはありました。図書館や展示室があり町民文化祭をやったりしていました。利用するのは、大体が60代以上の方々だったので、再開は難しいと言われています。だから、自分達の力で何とかしないといけないんですよね。

坂本:女川に美術館をつくりたいという意見も出ていると言っていましたね。ただ、梶原さんみたいに個人がすでに動くことができているのに、あえてまた大きな施設をつくってトップダウンの啓蒙的なことを行う必要があるのか、これからの時代にあっていないような気もしました。これからの女川の街について、どんなイメージをもっていますか。

梶原:個人レベルで考えている段階ですけど、住んでいる人が居心地よく、出て行った人が戻ってこられて、違う地域からも人が入ってきやすい街をつくりたいです。子供だけじゃなくて大人も普通の生活を楽しめるといいなと思います。そのためにもアートがあるように思います。

坂本:こういう街になればいいと人任せではなくて、こういう街をつくりたいというのが心強いですね。梶原さんはあるインタビューで、震災のあとに「アートは何の役にも立たないと思った」と言っていたけど、どういう心境だったんでしょうかね。

梶原:そういえば、そんなこと言っちゃいましたね(笑)。震災の翌日に惨状を目の当たりにして、本当に怖かったんです。写真を撮ることもできず、絵を描くなんて絶対にできない状況だったんですよね。そんな時に、水道や電気に関わっている人、ご飯がつくれる人は役に立つけど、自分は何ができるのかなと思いました。この瓦礫で作品をつくる人とかいるだろうなと思ったけど、地元の人間として絶対そういうことされたら嫌だなと思いました。今になれば、記録を残すことも重要だし、個人の表現として何をやっても自由だと思えますけど、あからさまに瓦礫の絵とか描いている作品を見たところで、地元の人間は嫌なことしか思いださないし、何も救われないですよ。だって、その瓦礫のなかにまだ人がいっぱい居て、私はいまだに映像だって見ないですよ。

ただ、ある陶芸家の方が、被災者のために木で祈りの塔をつくっていて、何も手を加えず形造られてない木ですけど、何だか嬉しかった。そういうものの方が、つくり手の感情や考えを押し付けられることなく、静かに色々なことを考えられる。震災に対する思いは人それぞれ違いますからね。現場を描いたり、撮ったりしたものよりは、何でもない木があることの方が、ずっと気持ちが落ち着きました。私は、もともとアートとかよくわかってなくて、ずっと何の役に立つんだろうって思っていたり、自分なりの罪悪感みたいのもあったりしました。でも、震災のあとに活動していくなかで、こういう場で必要なのかなっていうことが、ようやくわかってきた気がするんですよね。

坂本:ミミオ図書館やヴォルカノイズの活動をやっていくうちに、アートは動詞じゃないかと思うようになりました。小さな自分を飛び出して思わぬ力が出て来ること、日頃おさえている欲望が湧き出てくるような、そんな人間の動きを見た時にアートを感じる。内なる精神世界とか静かな個人作業とか言われる一方で、内に深く潜ったら、その分高くビヨーンとジャンプして外の世界とヒリヒリ触れるような動き、生命力みたいなものが今必要な気がします。梶原さんが言っていた「辛い顔をしていることに飽きちゃう」って感覚、少しわかるような気がします。潜ってばかりじゃ息がつまる。

たまに、活動に対して「大変ですよね、よくやりますよね」みたいなこと言われることがあるけど、本当に大変で嫌だったらやってない、その前に体が動いちゃうってことでしょ。ミミオ図書館は、絵本とかモノだけだったらどこかに本棚1つ置いておけばいい話。でも、人が動かなければモノも動かない。人が動くことで、さらに予想もしないような新たな動きが生まれる。たとえ来場者がいない時間でも、そこに人がいることが大事な気がするんですよね。

梶原:私も動いていたい。正直言って、今自分がやっていることに確信なんてないんですよ。よくわからないところから始まっている。でも、すごく楽しいんですよ。静かに作品を有り難がるだけじゃなくて、自分自身が動けることが本当に面白い。

 

 梶原千恵(かじわら ちえ)

1982年生まれ。宮城県牡鹿郡女川町出身、在住。宮城教育大学生涯教育総合課程卒業後、通信制高校、デザイン会社勤務を経て、2009年より講師として石巻市内の県立高校で美術を教える。震災後、高校生とカラフル表札を作り仮設住宅へ贈った事をきっかけに、アートを通して仮設住宅支援、商店街活性化などのボランティア活動を始める。現在、石巻市立門野脇中学校美術科教諭。

 

★梶原さんのインタビューの途中に、上映会「外はすぐそこ」の女川映像「行商幾歳月」を見にいらした高野さんと阿部さんともお話をした。高野さんは仮設住宅の建設に関わった女川町議会の方。阿部さんは、映像に出てくる木村健吉さんの姪にあたり、再開した魚市場マリンパルで最初にお店を出した方である。

お二人が入ったシアターからは、大きな笑い声が聞こえていた。お二人とも、映像にうつっているものは何もかもなくなってしまったからとても貴重で、泣いたり笑ったりして楽しんだと言ってくださった。阿部さんは「全て津波で流され身一つだけど、いつも心をからっぽにして、泣く時は泣いて、笑う時は笑わねえと」と言っていた。

その後、高野さんの声かけで多くの方々がいらしてくださり、今は女川に住んでいない木村健吉さんの息子さんにも連絡してくださった。ご家族の方は、この映像についてご存知なかったようだ。また皆さんで一緒に映像を見られるよう、仮設住宅の方々と息子さんにDVDを1枚ずつさし上げた。木村健吉さんの奥様にも映像を見せたいと言っていただいた。